1年間のお礼を言う為に仏壇に手を合わせる。お線香の香りと揺れながら立つ白い煙。それらがゆっくりと天井へ溶けていくのを眺めながら、今年も終わるのだと思った。写真の中の家族は年齢を重ねることはない。追憶の世界に棲んでいるからだ。
師走になると、生きるとは何だろうと考えることが多くなる。ふと、仏壇の引き出しの中に母の友人からいただいた手紙を見つけた。葬儀の時、母にとって私が自慢だったことを教えてもらえた。病があっても、だ。涙が止まらなかった。
母の晩年、ずいぶん口論が増えた。それは私が反抗的だったからではなく、私が「自分の人生を生き始めた」から起きた摩擦だったと思う。
それって、悲しいけど、同時にちゃんと健全な衝突でもある。
母に悪気はなかった。むしろ愛情だった。気弱なところもあったけど優しい母だったと思う。
でも、役割と距離だけが変わっていくのに、互いの「世界のバージョン」は更新されないままだった。
親子って、とくに「かつての息子・娘」を前提にした関係が、無意識に長く続きやすい。
子どもが変わっても、親の中のシナリオが更新されないと、
- 心配という名の介入
- 愛情という名の制御
- 正しさという名の圧力
になってしまう。
それは愛情が歪んだわけではなく、適応が追いつかなかっただけ。
言葉に変換しにくい感情だってある。上手く伝えようとすればするほど空回りすることだってある。けれど時間は待ってくれない。
この2つが同時に存在するのが、人生のいちばん残酷で、でも本当のところだ。
- ちゃんと話せるようになる前に、時間が進む
- 整理できた頃には、もう相手がいない
でもそれは、母や私の「失敗」じゃない。限られた時間しか生きられない人の仕様なのだろう。
そんなことを思い返していると、ふと17歳の頃のことが浮かんだ。音楽の道に進める話をいただいたけど、両親は大学に行くことを望んだ。90年代。日本はまだ学歴社会の真っ只中だった。大学を出ていない父は社会に出てからそのことで悔しい思いをしたのかもしれない。一理あると思った。
それから色々あったけど10年後、「あきちゃんは、ホンマは音楽の道に行きたかったんやろ?ほな、行き。」そう言って、当時の先端だったG5と学びの機会をプレゼントしてくれた。
けれど、入れ替わるように母を失った。あまりにも突然のことだったから、母と話す機会もなかった。正確には最後の言葉ではなかったけれど「あきちゃんがいてくれて、お母さんは幸せだったよ。」呼吸が苦しかったのだろう。か細い声だったが絞るようにそう言ってくれた。
ある日、母が入院している病院から「すぐに来てください」とだけ連絡があった。事態がつかめないまま病院に向かうと、母はICUに運ばれていた。そして、もう意識が戻ることはなかった。
まるで他人事のように穏やかな晩秋の空。記憶のどこか「悲しみのない自由な空へ」というソプラノのエコーが、やけに頭の中で響いた。遺骨になった時、どうにかなりそうだった。叫び出しそうになった。慟哭はひと月近く続いたが、やがて少しずつ落ち着きを取り戻していった。
母の心を乗せて生きて行く。そう誓って、以来、18年間ほぼ毎日音楽を作り続けてきた。
ただ、最近気づいたことがある。今年の春から母が夢に出てくることさえ、もうないのだ。どんなに苦しくても、きっと全てをありのままに受け入れられるようになったからだろう。母のことも私のことも。強さも弱さも、何もかも。
きっと、人は皆、未完成な音色なのだろう。完全ではなくとも、自分だけの、とびっきりの音色を持ち寄って、人生というステージでハーモニーを奏でる。それが生命の系譜なのかもしれない。
2026年からは母の心を乗せて生きるのではなく、私らしい私で生きていく。もう背負うことも力む必要もない。母は私の中にいるのだから。2025年は、その静かな転換がようやく形になった年だった。
長い時間をかけてようやく辿り着いた、私らしい私へ。もう一度、見失ったあの空に追いつけるように。
あとがき
生命はこれっきり、一度きりしかないことだけは分かる。けれど、「生きる意味は?」と問われたら、途端に分からなくなる。生きることそのものが、生きる意味なのかもしれない。今はそうとしか言えない。
Akihito Kimura