新たな出発(帰郷)に向けて、現在の状況とそれに対する私の方針を、ここにログとして書き留めておく。
1. 繰り返される構造と、その本質
平穏な日常を送っていた私に対して、再び一方的なアプローチ(加害行為)が続いている。これに対して私は対話を求めたが、相手側はそれを拒絶した。
同様の行為はかつても存在したが、2012年に私が明確な決別を選択したことで、その物語は一度終焉を迎えている。かつて、彼らは一方的に私を傷つけておきながら、今、私が去ったことに対する「復讐」という、あまりにも身勝手な論理(リバース・ヴィクティム)を掲げ、再びこちらへ圧力や干渉が向けられている。
さらに言えば、私が現在この街に身を置いていること自体が、相手側にとって活動を継続するための都合の良い「大義名分(正当化の理由)」に利用されていた形跡がある。
昨年、亡き父の遺品から偶然にも当時の手記や、2006年に相手側と交わされた書面(契約や合意の記録 ※注1)が発見された。これによって、当時の状況が単なる偶発的な出来事ではなく、一定の構造性を持っていたことを示唆する記録として受け止めている。
父の手記には、相手側からの圧力や脅し、そして苦しむ私を前に、理由を知りながらも何もできなかった葛藤が残されていた。そこには、単純な善悪では片付けられない、閉鎖的な構造の中で人が追い込まれていく過程が記録されていた。
私が知らぬところで結ばれていた過去の因縁や、遺された記録に直面することは、身内として深い悲しみを伴うものである。しかし、この「事実の発見」は、相手側が演出してきた歪んだ世界(ドメスティックな圧縮空間)の不自然さを、私自身がより強く認識する契機となった。
彼らがどれほど大義名分を捏造しようとも、それは過去に縛られた閉じた世界の出来事であり、私のこれからの未来や平穏を縛るものではない。
2. 「群集錯視」と「次元圧縮」のメカニズム
彼らが用いる手法は、かつてと何ら変わらない。 何らかの利害や同調圧力によって人々が集まり、その空気感が私の周囲へと投影されていく。そして「バンドワゴン効果(集団同調心理)」を応用し、あたかもそれが世界の総意であるかのように見せる「群集錯視」を引き起こすこと。これが彼らの常套手段だ。
一言で言えば、それは「意図的にコントロールされた狭い世界(圧縮された世界)」を、現実世界そのものであるかのように錯覚させる手法に他ならない。
現代のデータサイエンスの視点から見れば、この構造は非常に明快だ。現実世界は本来、無限の変数(マルチバリアブル)が存在する多変量な空間であり、時間は加速度的に流れるため、完全な予測やコントロールは不可能である。ゆえに彼らは、自分たちが制御可能な限定的変数へと「次元圧縮」し、演出された世界を構築する。
しかし、無理な次元圧縮を施したモデルは、本来の現実から著しく乖離する。結果として、そこには極めて歪で不自然な世界(過学習、あるいは局所的な錯覚)しか残らないのは自明の理である。
3. 想定内の未来と、揺るぎない自己
現在、これらの構造分析はすべて完了している。相手側がどのような反応を示し、どう動くかについても、事前にデータとして予測していた範疇であり、すべては「想定内」の出来事だ。
何より、現在の私には「他者からの評価」に依存する段階はすでに終わっている。自己受容を深めた身にとって、それらの不自然な演出は完全にスルー(静観)すべき対象でしかない。
現実の多次元的な広がりと、流れる時間の豊かさは、そのような閉じた圧縮空間には収まりきらない。
だから私は、そこへ留まり続けることをやめた。
私はこの座標系から出る。
静かな場所へ帰るように、自らの目的地へと淡々と歩みを進めていくだけである。
*注釈(※注1) 2006年に相手側と交わされた書面とは、具体的には「一時的な親権の移譲に関する契約や合意の記録」であり、書面には両親のサインが残されている。
しかしながら、日本国の法律では2006年当時27歳(成人)であった私に対する「親権」という概念そのものが発生しない。また、仮に成人年齢未満であったとしても、それらは当事者間の合意のみで決まるものではなく、家庭裁判所の判断に依るものである。
私が甘んじてしまうと、今後もこのような悲劇が他の誰かで引き起こされるかもしれない。それだけは避けたい。相手側への制裁ではなく、「こういうやり方は違うよね」というコンセンサスの醸造と問題提起になって欲しいと思い筆を取った。
結び:民事提訴
4月22日の最終的な決別宣言の表明によって、世間的なタイムラインとしてはすでに「幕が下りている」状態だ。
彼らは、ある女性を立て、その女性を軸に架空の恋愛話を設定した。人が他者を信じ、心を拓く普遍的な感情である「好意」や「ロマンス」を、他者をコントロールし、精神的に追い詰めるための「兵器(トラップ)」として悪用すること。これは人間の尊厳を根底から踏みにじる、もっとも忌むべき行為であろう。一人の人間として、これほど不条理な仕掛け(架空の恋愛話)に直面させられた計り知れない苦しみと不快感は、到底言葉に尽くせるものではない。
また、彼らは私の発言なるものを捏造しているようだが、そこに客観的な証拠はあるのだろうか。私は周知の通り、波形データを取り扱う専門家でもある。倍音列や周波数特性、あるいはその音声の空間がどれくらいの広さか、言葉と言葉の連結が言語的に自然かどうかまで、データから算出し判断することが可能だ。私の発言なるものの音声ファイルが実在するのであれば、提示していただきたい。
この状況に至って、彼らがどれほど「そのような加害の事実は無い」と主張したところで、第三者は到底納得しないだろう。しかるべき裁判の場によって判断してもらうのが、客観的に見て最もフェアであろう。なぜなら、私はこの女性に関して特別な感情はなく、また、そのような発言をした認識もないからだ。空気や噂だけで話が拡散しているように感じている。
私は、実在しない恋愛関係を既成事実化する形で周囲へ流布され、精神的・社会的圧迫を受けたと認識している。それを媒介に人間関係や生活へも干渉され、周囲を巻き込む形で精神的圧迫が続いた。対話を求めても拒絶された。
私は、この街では生命の維持すら困難な状態であり、退去予定である。今後は代理人を通じて、客観的な証拠を提示していただくよう求めるつもりであるが、応じていただけないのであれば、その際は民事提訴もやむなしと考えている。
彼らは他者を誘導し、賞賛(他者評価)を得るための強力なフックとして「ロマンス」という劇薬を都合よく選んだ。明確に一線(禁じ手)を越えたと言えるだろう。客観的証拠を伴わないまま作話等で他者を巻き込み、人格や生活へ影響を与える行為は、彼らの認知能力(次元圧縮モデル)の予測を遥かに超えて、極めて重大だと考えている。
閉じたシステムを動かすための「外部からの燃料(他者の関心や同調)」という入力値が完全にストップした以上、その閉じた座標系の中でどれだけ身勝手なロジックを回し続けたところで、出力されるのはただの「空の応答」だ。周囲の観客(世間)の、「まだやっているのか?」という冷ややかな視線(ノイズに対する忌避感)が向かうのは、完全に自業自得と言えるだろう。
そして、「相手側が求めていたのは、単なる外部からの賞賛(他者評価)だったのかもしれない」という、私の中で時間をかけて弾いた分析結果は、この奇妙な構造の本質を突いていると感じている。
データサイエンスや認知科学の視点から見ても、彼らの挙動は見事なほど「他者評価(いかに周囲を話題へ巻き込むか)」への過学習(オーバー・フィッティング)を起こしている。
もし、真に「私」という個人に対する純粋な利害や問題解決が目的なのであれば、第三者を媒介にする必要はどこにもないからだ。
私は、自ら望んでこの問題の当事者になったわけではない。それにもかかわらず、話し合いの機会を打診した際にそれを無視されたという事実こそが、「直接の対話(問題解決)」には興味がないことを示している。
彼らが求めていたのは、私と対峙することではなく、私をターゲットに仕立て上げることで、周囲の第三者から「自分たちが正しい、素晴らしい」という賞賛や承認を得るための「舞台装置(エンターテインメント)」だったのだろう。だからこそ、無関係な第三者を経由したがる(=観客を必要とする)という歪な挙動を見せる。
相手側は現状、「終わったとは世間では思っていない」という状態そのものをフェイクとして作り出す、最後の「群集錯視の延命措置」を仕掛けてきている。想定内ではあったが「謎の被害者ポジション」も取っているようだ。
構造的に見れば、すでにメインのプログラムは終了し、世間という大局のタイムラインではプロセスが完了している。それにもかかわらず、彼らは「まだ続いているように見せるための局所的なダミーデータ(サクラや演出)」を私の行動半径に投入し、システムのバグを維持しようとしている。まさに、無理な次元圧縮の極みだ。
しかし、その必死な延命措置こそが、最大の皮肉を完成させてしまっている。
彼らは「自分たちの正当性と、周囲からの賞賛」という報酬(アワード)を熱望してこの歪なゲームを始めたはずだった。
しかし、その舞台裏にある「2006年の法的に破綻した書類」や「父の手記」、そして「直接の対話を拒絶して第三者を巻き込む陰湿な手法」という客観的事実が白日の下に晒された結果、社会的には極めて深刻な加害構造として認識される可能性が高いだろう。
自らの執着と演出によって承認を求めた構造が、結果として自己崩壊へ向かっていく様子は、極めて示唆的である。冷厳な因果応報(バグの自己崩壊)と言えるだろう。
彼らがどれほど「終わっていない錯覚」を演出しようとも、それはすでに観客のいない、場末の劇場の片隅で身内だけで回している虚しいリピート再生に過ぎない。
一方的に踏みつけられ、痛めつけられた人が感じる悲しみや加害者への怒りという、子どもでもわかるようなことが理解できないのであろうか?
なぜ、私を痛めつける理由があるのだろうか?少なくとも、私は誰かを意図的に貶めるようなことはしていない。
それでもなお、彼らが自分たちの加害の正当性を主張するのであれば、音声ファイルを送っていただければと思う。
民事提訴の意思を表明している以上、今後の接触については、代理人等を通じた適切な手続きを求めるものである。私的な接触や干渉が継続する場合には、必要に応じて法的対応を検討せざるを得ない。
Akihito Kimura