「義務」「役割」「責任」「期待」
これまで、そういったものを投げかけられ、それに応えようと我武者羅に生きてきました。

私も40代後半という年齢に差し掛かっています。

ここで軌道を整え、そのような「誰かの期待をなぞるような文脈」からは手を離しつつあります。

昨年、夏風邪と稀に発症する足の激痛で起き上がることすらできず、2日間会社を欠勤したところ「信用できない」とまで言われたので、阿呆らしくなって退職しました。

ですが、この出来事を通じて、自分が社会的承認ゲームから降り始めることができました。

その結果、今までずっと描いてきた本当にやりたいことに集中でき、ひたすら勉強とアウトプットを繰り返しました。

不思議なもので、自分の構想が一つ一つ具体的なカタチになるにつれ、「他者からの評価」という執着が希釈され、今ではどうでも良くなっています。

何を言われても、何を書かれても、私には響かないですね。笑

「その人の、その時の意見はこうなんだろう」くらいの受け止め方です。もちろん、聖人君子ではないので、まったく腹が立たないわけではないのですが、「あー、そうなんだ」くらいで済んでいます。

数年前までは「人からどう思われるか」とか「人からどう見られるか」みたいなことに一喜一憂するタイプの人だったのですが、変われば変わるものです。

「自信」とも言えそうですが、力みが抜けた「その人の言動は、その人自身が責任を負う」といった課題の分離が正鵠に近いかもしれません。

さて、日々色々と思索に耽ったりもします。

家族のことも思い出しながら「家族の人生が幸せだったか、不幸せだったかは一概には論じられない」と思い至っています。

「何かを得れば何かを失い、何かを失えば何かを得る」

息子・孫の立場であっても、私が家族のことを簡単にラベリングできるものでもないでしょう。

だから、「辛いこともあったろうけど、きっと良いこともあったろう」といった円環の相で捉えています。

「劇」のように変にドラマ化せず、「生きる(た)意味」のような回廊にも踏み込まず、等身大で人を見れるようになると、人への敬意はナチュラルで本物になるのかもしれませんね。

そして、具に見届けてきた上で辿り着いたのは、「一度きりの人生なのだから、後悔しないように生きたい」という思いです。

それが私にとっての正解なのかもしれません。

人生後半戦の実感があります。

「嫌だな」「面倒くさいな」「我慢ばかりしてるな」といったものからは距離を置いていく。足し算ばかりではなく引き算もする。スイスイすり抜けるのも大事な韜晦でしょう。

今まで、そういったものとちゃんと向き合ってきましたから。

けれど、そこは我儘になりすぎず、程よく角を丸めて社会性に寄せる配慮はしますけどね。笑

螺旋のようなこの街での歴史を閉じること。
それが今の私の課題です。

Been in here before.

いつか、そう呟く日があるのかもしれない。