次のKindle出版に向けて、今週は、分析ごとにまとめていた文章を整理し、それらを紡ぎ合わせていました。4万6千字という私もちょっとびっくりする数字です。

データというのは、客観的なように見えて、実は主観というノイズが解釈の段階で乗る場合が多く、その妥当性というか飛躍しない範囲での理解というものを心がけました。

思えば、私が初めて機械学習コンペに参加した頃は、「どうすればスコアが上がるか」ばかりに目が向いていました。

たまたまベスト10に入った時は、「何でもお見通しなんだぜ」のように、今から思えば随分と鼻持ちならない万能感もあった気がします。笑

けれど、分析対象が「人の意識」や「音」のように輪郭が曖昧で流動的なものに近づくほど、数値だけでは掬いきれない領域が確かに存在することも痛感するようになりました。

こぼれ話というか、本流から逸れた視点やバイアスのかかった解釈は、往々にしてインパクトがあり、現代のインプレッション文脈において、時に胡散臭さと表裏一体になりながらも、高い訴求性・求心性を纏うのかもしれません。

ですが、私はその路線を選択しません。

音や意識といった、ありのままの状態が曖昧で本質的に流動性のあるものに対して、微分してそのグラデーションを断定したり過剰な意味づけをすることは、魔術的で一時的なカタルシスを生む一方、対象そのものの奥ゆかしさや複雑さを削ぎ落としてしまう危うさを孕むからです。

ですから、正解の提示ではなく「こういう結果が出たのですが、どう思い(感じ)ますか?」という書籍であるように1作目の執筆から心がけてきました。

これは、意識や音のデータというものが、受け手(読者)の人生や意識と交差した瞬間に初めて「完成する音色」だと思っているからです。

同じデータを見ても、人によって受け取るものが異なるのは、そこに各々の記憶や感情、身体感覚が混ざり込むからでしょう。

ですから私は、分析結果そのものよりも、「その結果が誰かの内部でどう響いたか」に興味があります。

さて、私は10代の頃、ちくま学芸文庫から刊行された「正史 三国志」をよく読んでいました。

冷静でありながら、志を抱いて生きた人々に対する、陳寿の静かな敬意と体温のこもった筆致には、当時から考えさせられたものです。像を重ね合わせるという意味ではありませんが、その視点は鑑としたいと思っています。

後世の創作(演義)による「ドラマチックに誇張された世界(=現代のインプレッション至上主義・胡散臭さ)」と、陳寿が冷徹かつ敬意を持って編纂した「正史(=客観データと誠実に向き合う姿勢)」の対比を思い返しながら、音響のデータも、人というレンズを通してでしか成立しないという逆説に苦笑いしつつ執筆しています。

劇画的な物語化ではなく、
観測できたものを、観測できた範囲で記述する。

その上でなお、
観測の網から零れ落ちるものに耳を澄ませる。

今回の執筆は、そんな感覚に近いのかもしれません。