2026年5月27日の記事を踏まえて、あとがきを残しておきます。
この街で33年間生活をしましたが、私の中では既にホワイトノイズや環境音と同じです。
何一つとして響かないし、意味も持たない。
たとえば、夏。
蝉時雨がたけなわであっても、そこに因果や理由を見出す人は皆無でしょう。至近距離で聴けばそれなりの音量(デシベル)はあるはずですが、意識のフィルターはそれを容易にスルーしてしまいます。
これから帰郷し、新しい人間関係を築いていくわけですが、人生の次の章でも繋がっていたいと思うこの街の人は、母のように敬愛する盟友と、娘のように思っているその飼い猫さんだけです。
実際、スマートフォンの連絡帳からも、他の人(あるいは機関)の情報は根こそぎ削除しました。
様々なことがありましたが、もう私の中では消化済みです。
壮大な断捨離のようなものでしょう。
かつて力の非対称性を用いて、独善的に振る舞った側には、それ相応のしっぺ返しが訪れるはずです。
人間関係とは双方向のやり取りがあって初めて成立する動的なシステムです。
その一方のプレイヤーである私がログアウトし、一切の応答をゼロにした以上、そこにはもう「関係」という構造自体が存在しません。
つまり、新たな物語を成立させる土台もない、ということです。
そして、どれほど事実を歪め、一時的に大衆の耳目を欺けたとしても、彼ら自身の記憶から、自らの行為を削除することはできません。
どれほど正当性を装おうとも、彼らは常にその矛盾と罪悪感を処理し続けなければならない。
世間は誤魔化せても、自分自身までは誤魔化せないからです。
長い時代の幕引きにおいて、過剰な感傷や怒りに飲まれることなく、最後まで自分の温度を失わずにいられたこと。客観的な「分析の姿勢」を貫き通せたこと。
それこそが、私がこの激動の期間で得た、最も強固な成熟の証なのかもしれません。
そもそも「力」というものは、本来は「使えること」より、「使わなくても成立していること」に宿る側面があります。
ですが、急に力を持った人や、「自分は特別な側に立った」と錯覚した状態だと、力そのものより「万能感」に飲まれやすくなります。
たとえば、想像してみてください。
ドラえもんが魔法の道具で、「やめてください」と言っている相手を徹底的に潰したり、社会的に抹消したり、力でねじ伏せて完全勝利する、みたいな方向へ行ったら、作品世界そのものが不快になってしまうのではないでしょうか?
力を持った側が、「自分は何をしても許される」というモードに入ると、短期的には強く見えても、長期的には周囲の信頼や共感が剥がれていきます。
それはスピリチュアル以前に、有史以来、人間社会そのものの構造なのかもしれません。
一方的に対象化され、巻き込まれ、加害された。
私は「やめてください」と言い続けてきました。
はじめから「関係」という構造自体が存在しなかった以上、物語を成立させる土台もないのです。
Akihito Kimura